月曜2限目の語学が始まるギリギリに講義室に駆け込んできたのがレイコであることに、アカネとユキは気づいた。席を探しキョロキョロするレイコに、2人は手を挙げて、自分たちの前の席が空いていることを示す。
「ありがと、アカネちゃん、ユキちゃん」
レイコは急ぎ足で、でもダルそうに、2人の前の席に着いた。
そのレイコの様子に、アカネとユキは思わず顔を見合わせた。
レイコはいわゆる魔性の女である。大学に入学してから2年足らずだが、すでに彼氏は4人目になる。
レイコの魅力はというと、基本素材が素晴らしいのはもちろんで……美人のタイプとしては、もう少し年齢が行けば、K木瞳的な年齢不詳な美魔女になりそうな上品な感じと言えばいいだろうか。身だしなみには常にぬかりなく、大学は山の上にあるにも関わらずスカートが多く、メイクも朝早い講義でも常にバッチリ……かといって色気過多にならない一線はギリギリで保っていて、しかしフェロモンは惜しみなくだだ漏れ。
当然誘蛾灯に群がる夏の虫のように、男共は彼女を取り巻くことになる。
しかしそれだけならば、ただのモテ女で済んだのだろうが、レイコの魔性たるゆえんは、とっかえひっかえしている彼氏たちのラインナップによる。どの彼氏もが、少なくともある1点においてハイレベルなのだ。学業優秀だったり、お金持ちだったり、名家のご子息であったり、イケメンだったり……もちろん2点以上の長所を持つ彼氏もいる。
そして魔性であるから当然、彼らは漏れなくレイコに骨抜きにされ、こき使われ、貢がされまくったあげくに、悲惨な捨てられ方をする。その中のひとり、同級生のIなどは、レイコに捨てられたショックで自殺未遂事件を起こした。危ういところで下宿の先輩に発見され一命は取り留めたが、すっかり心身を壊してしまい、休学して実家に戻ってしまった。
なのに。
レイコは男を切らしたことがない。なぜか次々とハイレベルな男子が寄ってくる。
男共は、自分だけは捨てられたりしない、ひどい目に遭ったりしないとでも思っているのだろうか。
ちなみに今の彼氏は2学年上の先輩で、某大物政治家の一族である。
そんなレイコは、当然ながら女子には全く人気がない。というか、概ね嫌われている。
だがアカネとユキは、同じクラスということもあり、1年の頃から比較的親しくしている。今のところ2人に実害はないし、それに何といっても―――観察対象としてのレイコは、大変興味深い存在であるから。
観察対象、というのは、実はアカネとユキは腐女子である。所属している漫研のメンバー以外には、腐っていることを上手く隠しているが、高校生の頃からソレ系のマンガを同人誌に発表してきたほどの、結構な筋金入り。
だから“女の敵”であるレイコも、2人にとってはネタの宝庫としてオイシイ存在なのである。レイコをモデルに“魔性の男”が描けないものかと構想しているほどで。
しかし、その魔性で鳴らすレイコが、今朝は明らかに精彩を欠いている。メイクで隠しきれない顔色の悪さ、目の下の隈、唇の荒れ。服装だって、ジーンズにトレーナーという、彼女としたら部屋着であろう適当な組み合わせ。自慢の艶やかな黒髪も、首の後ろで無造作に結わえているだけで、櫛もロクに入れていない様子でもつれて跳ねている。
日頃の素行からすると、夜遊びのしすぎだろうと解釈できないことはないが、アカネとユキにはそれだけとは到底思えなかった。2人がレイコと前に顔を合わせたのは先週末だったから、2,3日は経っているが、それだけの間に格段にやつれてしまった。なによりも、いつもの溢れるフェロモンが全く感じられないのだ。
「レイちゃん、顔色悪いよ。体調悪いの?」
アカネがそれとなく問いかける。
「あ、うん……ううん、そういうわけじゃないんだけど」
なんとも煮え切らない返事。
「いや、マジで調子悪そうだけど?」
ユキも手を伸ばし、もつれたレイコの髪を梳きながら。
「うん……ちょっとだけね……」
レイコはうつむいて。
「眠れなくて……食欲もなくて」
アカネとユキはまた顔を見合わせた。レイコを心配する気持ちはもちろんあるが、2人の目に宿る輝きは―――ネタを見つけたかもしれないという期待感。
このレイコが身だしなみをおろそかにするほどの事態とは、一体何事か?
「なんかあったの?」
アカネがあからさまにならない程度の猫なで声で。
「あたしたちでよければ、聞くよ?」
ユキは心から心配してるよ的眼差しでレイコの顔を覗き込む。
レイコはうつむいたまま、また考え込んでしまったが……その時、教授が足早に講義室に入ってきた。レイコはそれで思い切ったかのように。
「……じゃあ、よければ、あとでお昼食べながらでも、聞いてくれる?」
そして2人を不安げな眼差しで見つめて。
「信じてもらえないかもしれないけど……」
「ううん、一応どんな話でも、先入観無く聞くよ?」
ユキが微笑みながら答えると、レイコは少し安心した様子で前を向いた。
アカネとユキは三たび顔を見合わせ、ニヤリと笑い交わした。
「この週末は、Y先輩に伯父様の別荘に連れていってもらうことになっててね、一昨日の夜に、そこへ向かうドライブ中にあったことなんだけど……」
学生食堂の片隅、レイコはわかめうどんを前にしながら、アカネとユキに語り始めた。一応箸を手にしているが、うどんは一向に減る様子はない。本当に食欲が無いようだ。
一方アカネとユキは、レイコの話への期待に爛々と目を輝かせながら、もりもりと日替わり定食をたいらげている。
ちなみにY先輩というのはレイコの現彼氏で、政治家一族のボンである。別荘は八ヶ岳の麓にあるそうな。
「伯父様の別荘って、ホームパーティーにでも呼ばれたの? すごいじゃなーい」
さすがセレブ政治家、と思いながらアカネが茶々を入れる。
「ううん全然そういうんじゃなくて、この週末はどなたも別荘を使わないから、ふたりでゆっくり過ごそうってことで」
ああなるほど、人里離れた森の中の別荘で誰はばかることなく、ふたりきりでゆっくりねっちり愛欲の夜を過ごそうということね、とアカネとユキは腐女子的な語彙で事情を理解する。
「高速降りたらもう真っ暗になってた。でも別荘は、もうしばらく一般道を山の方に上ってかなきゃならないのね。山に近づけば近づくほど、車も少なくなって人家もまばらになっていって……」
うんうん、それで? とアカネとユキは、食べながらも調子の良い相づちは欠かさない。
「そしたら、突然」
ぶるっ、と、レイコが身震いをして、自分の腕を抱きしめた。
「バンって近くで何か爆発するみたいな音がしたと思ったら、車がガタッて傾いて、タイヤがガリガリって道路を擦って」
「あ、パンクでしょ!」
とユキが口を挟んだ。彼女も父親の車で経験済みだ。
うん、とレイコは青ざめた顔で頷き、
「Y先輩も、あっパンクだ、ってすぐに気づいて車を路肩に寄せたの。とりあえず見てみようって、ふたりで車を降りて」
パンクしたのは助手席側の後輪だった。
「懐中電灯でそのタイヤを照らしたら……」
レイコが耐えかねたように、バッと顔を覆って。
「タイヤの下に、人が下敷きになってたのよ!」
「ええっ?」
アカネとユキの箸がさすがに止まった。
「空気が抜けて潰れたタイヤが、血まみれの男の人の胸に乗ってたの……下半身は車の下に潜り込んでて……」
「えっと、えっと……人を跳ねたりはしてないんでしょ? 単なるパンクで」
「もちろんよ、だって夜更けの山の中よ? 人なんかいないわよ。それに何かに乗り上げた感触もなんか無かったし」
「だよね……じゃ、何かの見間違いだったとか……?」
「私もそう思ったの。すぐに……数秒でふっと消えてしまったし、だから夜の山で遭難ぽいことになってしまった、ショックとか恐怖が見せた幻覚かなって」
ふたりは頷く。それはあり得るだろう。
「でもね……先輩にも見えたらしいのよ」
「えっ!?」
「それが見えてる間、私はもちろんだけど、先輩も凍ったみたいになってて……消えてから、真っ青になって私を見て、おい今、人がいなかったか!? って」
レイコは掌で顔を覆ってしまった。
「先輩にも見えたのよ……しかも」
「……しかも?」
アカネとユキはぐっと箸と汗を握りしめる。ただの幻覚で済む話ではなさそうだ。ふたりの専門(?)はBLだが、創作者の常で当然怪談話も好物だ。
「……その男の人、Iくんだったみたいなの」
「え、Iくん?」
「えっと……レイちゃんの元カレで、休学中のIくん?」
レイコは顔を覆ったまま、頷く。
「痩せ細って少し面影が変わってたけど、でもIくんだった……」
ふたりが知るIは、太めというほどではないが、育ちの良さを思わせる柔和な丸顔の、ちょっとふっくら傾向の健康的な青年だったから、痩せ細った彼を想像するのは難しかった。しかし、面影が変わっていたはいえ、元カノのレイコが言うのだから、おそらく彼だった……少なくとも彼に似た人影ではあったのだろう。
「それこそ、Iくんに見えたのは、私の罪の意識のせいかと思ったわよ」
レイコは泣き出しそうな声で言う。
へええ罪の意識、少しはあったのね、とアカネとユキは声に出さずにツッコむ。
「でも少し時間が経ってから……JAFに来てもらって、タイヤ換えて、帰り道の高速に乗ってから先輩が言ったのよ」
さすがにそんな出来事があっては、人里離れた別荘での愛欲の夜を過ごす気にはなれなかったらしい。
「……なあ、タイヤの下にいた男、Iじゃなかったか……って」
さすがのアカネとユキの手にもじわりと嫌な汗が滲む。
「Iくんて、実家に戻って療養してるんだよね?」
「そのはずよ」
レイコとIのすったもんだがあったのは2年になってすぐの春だったから、彼が休学して半年くらいになる。
「……無事、だよね?」
「どういう意味よ?」
レイコが顔を覆っていた手を外すと、血走った目が現れた。ヒステリー寸前の美人には、凄みがある。
「えっと……だから、彼、また命に関わるようなこと、やらかしたりしてないよね? っていう意味」
「彼が生きてないかもしれないって、言いたいの!?」
レイコの声が裏返る。
「あ、いや、だって……Iくんがそんなところに、そんな風に現れたとなると……」
Iの幽霊が、レイコを恨んで現れたのではないかと、どうしても考えてしまうではないか?
「……レイちゃん、そんなもの見ちゃったのに、確かめてないの?」
「何をよ!?」
「だから、Iくんの安否」
「……そんなことっ」
レイコの充血した目からとうとう涙がこぼれ落ちた。
「怖くて確かめられるわけないじゃないっ!」
レイコは食堂の机に、わっと泣き伏してしまった。
すっかり取り乱してしまったレイコを何とか落ち着かせ、下宿のアパートに送り届けてから……レイコにひとりでいるのが怖くないかと訊いたら、Y先輩ではない男子が来てくれるということなので、ふたりは安心して……でも少々呆れつつ、ある人に会うために、もう一度大学に戻った。
大学に戻ったふたりは、まっすぐサークル室へと向かった。目当ての人は、案の定、部室でネームを切っていた。
「タキ先輩こんにちはっ。作業中申し訳ないですが、ちょっとお訊きしたいことがあるんですっ」
「タキ先輩って、Iくんといまだにメールとかしてますよね?」
挨拶もそこそこに、無精ヒゲの3年生にアカネとユキは意気込んで。
「ん? うん、してるけど?」
タキ先輩はIと同じ下宿の住人で、彼の自殺未遂を発見し命を救った本人であるし、そんな事件がある前からもIと親しくしていた。
ちなみにタキ先輩というのは本名からではなく、当然PNからきている呼び名で、いかつい風貌に似合わず、少女マンガを描く。
「Iくん元気ですか?」
「なんでいきなりそんなこと……あ、そっか、お前ら同じ学科だっけか」
ふたりは頷く。
「随分元気になったぜ。病院通いしながらだけど、家の仕事手伝い始めたって、つい先週もメールが来て」
Iの実家は、北陸の老舗和菓子屋である。
「復学は無理かもしんねーけどな、立ち直りつつあると思うぜ……あ、そーだそーだ」
タキ先輩はポケットから携帯を引っ張り出す。
「職人姿見せてみろって返事したらな、つい昨日、写メくれたんだ、ホラ」
小さな画面には、白い作業着姿のIがいた。半年前に比べると随分痩せてしまったが、確かにIだ。照れくさそうな笑顔でピースサインを出していて、確かにそこそこ元気そうに見える。背景には大きなせいろが写っているから、きっと作業場で撮ったものだろう。
昨日来た写メ、ということは、レイコとY先輩が八ヶ岳の麓でタイヤの下の男を目撃した時には少なくとも、Iは生きていたということで……
そして今日もきっと、Iは元気に生きているのだろう。
いやもちろん、旧友の回復は喜ばしいことだ。
でも。
そうか……生きているのか。
Iは生きているのに、レイコの前に現れたのか―――
アカネとユキは、亡くなっているよりも―――なんだか怖い気がした。
(終)
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