俺と、パーカッションパートの後輩・早乙女照が、第3ピアノ室でヤバいもんを見ちゃってから1ヶ月ほどが過ぎた。その間、俺は例の部屋に1回も足を踏み入れていない。
それでも、何度もあの恐ろしくもシュールな――まるでダリの絵のような光景を思い出したり、夢に見ちゃったりして、そのたびに震え上がってはいたのだけれども。
俺たちがアレを見ちゃった時に一緒にいたパートのメンバーにはもちろん「何を見たのか?」とスルドク追求された。
追求されて、俺はものすごく困った。なんと答えたものか。正直に見えたものを言うべきか。けれど、かなり強烈なブツだったから、話だけでも女子達が怖がるのは必至だろう。っつーか、パニック状態にもなりかねない。せっかく入った1年女子が怯えて辞めちゃったりしたらどうするよ……?
と、思い煩っていると、照が素早く、
「良く見えなかったんですが、何か気味の悪いものが弦に絡まっているように見えました」
真顔で答えた。俺は咄嗟に便乗して、
「うんうん。でっかい虫の死骸かなんかじゃね?」
話を合わせた。きゃー、やだーと騒ぐ女子たちに、照は神妙な顔で頷き、
「ですから、近寄らない方がいいですよ」
と、見事なポーカーフェイスで通し……
ホントこいつ、綺麗な顔してなかなかのクセモノ。
むしろ、人形みたいに整ってる顔だからこそ、表情が見えにくいってのもあるんだろうか。
でも、そうして口に出してみると、確かにアレはアレだったのか、確信が持てなくなってくるから不思議なもんで。
第一、照と俺は具体的に口に出してお互いが何を見たか確かめ合っていないし。
ま、とにかくその場はそうやってうやむやに済ませたせいか、部内には一時噂が広まったりもしたんだけど、それ以上広がることもなく、すぐに沈静化したようだった。
噂が盛り上がってる時期には、実際見に行った物好きもいたようだが――しかもピアノの蓋を開けてみた強者もいたようだが――結局誰も何も見なかったようだ。大多数の者は、件のピアノを覗いただけで、もしくはせいぜいHキーをポーンと叩いてみて、ああホントだ、音程わりー、気持ちわりー……で、気が済んだようだし。
まあ普通そうだろな。俺だって怪談話自体は入学当時に先輩に聞かされてたけど、キーを実際叩いてみようとか、ましてや蓋開けて中身みてみようなんて考えもしなかった。照が言い出して検証してみなければ未だに、単なる数あるN高怪談中のひとつ、としか思ってなかったろう。
でも、気になるのは。
俺らの体験を聞いて、後発で見に行ったヤツらが、誰も何も見なかったのはどうしてだろう? Hキーの音程は悪いままなのだから、アレは今もピアノの弦にひっかかったままなのだろうに。
見える者と見えない者がいるのか?
それとも見るには何らかの条件があるのか?
それから、これを言い出すとそもそも事象の根源に関わるのだが――俺が見てビビったモノは、照が見てビビってたモノと、果たして同じものだったのだろうか?
俺が見たものは、H弦に絡まる白く細い血まみれの指だったけれど、照が見たものは何だったんだ?
大事なことだから2回言うけど、俺と照は具体的に口に出して、見たブツについて確認し合っていないのだ。
――と、未だに思い出せばゾゾっとはするのだが、それでも意図的に第3ピアノ室には近づかないようにして、忘れよう忘れようと心がけていると、アレは果たして現実だったのか? 白昼夢だったんじゃないか? なんて思えてくるから不思議なもんで。パート員たちへのごまかしが実は真実で、虫とか小動物の死骸を見間違えただけかも。それとも照と俺の、怪談話によるプチ共同幻想だったのかもー、なんて逃避することもできるようになってきた。
人の心って意外と便利にできてるよな。
そんなこんなで1ヶ月経ち、次第に恐怖も薄れてきた今日この頃。
いつものように早弁をした俺は、昼休みイソイソと音楽室へ向かっていた。今日は、誰も使ってなかったら、昼のうちにティンパニの基礎練がしたい。放課後は合奏だし、今のうちにみっちり……なんて考えながら音楽室の手前の、吹奏楽部室のドアノブに手をかけた瞬間。
「あ、先輩、こんにちは」
ドアが開き、照が出てきて礼儀正しく挨拶をした。その手には何故か埃だらけの古びた湯飲み。何年も前の修学旅行のお土産らしく金閣寺柄だ。
「おう、ちわ……照、その湯飲み、何?」
「これ、使っても大丈夫ですよね?」
確かその湯飲みは、戸棚の隅っこでクリップとかの小物入れになってたんじゃなかったっけ。まあ出所不明なブツだし、小物は他にも入れられそうだし、全然構わないだろうけど……
「大丈夫だろうけど、何に使うんだ?」
照はニコリとスミレの花のように微笑み。
「――お茶をお供えしてみようかと思いまして」
「……どこに」
一応訊いてみたりもしたけれど、もちろん訊かなくても分かってる。
「そりゃ、第3ピアノ室にですよ」
照は分かってるくせにィ、という表情をすると俺の脇をすり抜けてスタスタと歩き出す。どうしようか。できたらあのピアノにはこれ以上関わりたくない……と一瞬迷ったが、このなりゆきでは仕方ない、後をついていく。
照は廊下の流し台でくるくるっと手早く湯飲みを洗うと、ポケットからお坊ちゃまっぽい紺色のぴしっとしたハンカチを出して拭きながらまた歩き出し、1階分階段を降りて。
「本当はお酒お供えしたいところなんですけどねー。ウチ、酒屋だからタダだし」
乙女酒造のお坊ちゃまだもんな。
「でも、菅野先生にお伺い立てたら、いくらなんでも校舎に酒持ち込みはダメって言われちゃって」
ぺろりと舌を出すと、その菅野先生……俺たちは菅ちゃんと呼んでる顧問がいるはずの、社会科教官室の戸をノックして、開けて。
「失礼しまーす、菅野先生、お茶もらいにきました」
おーう、と中から菅ちゃんののんびりした声が聞こえた。
教材が積み重なっている先生方の机を縫って奥の方にある菅ちゃんの席までたどりつく。机に積まれてるのは、世界史の教材半分、楽譜半分といったカンジ。
「お茶ください」
照が湯飲みを差し出すと、
「本当にやるのかあ」
先生は失笑すると、よっこらしょと立ち上がり窓際のティースペースに向かった。
「やってみますよ。先生だってまともなピアノが増えた方がいいでしょ?」
「そりゃあ、祟りが噂されてるようなピアノで生徒を練習させたくはないわなあ」
わはは、と、菅ちゃんは笑いながら、それでもお茶っ葉を入れ替えてから緑茶を注いでくれた。
「昔はピアノ室にそんな話、無かったんだけどな」
「そうですってね。母も聞いたことないって言ってました」
菅ちゃんがN高に赴任したのは今回が2回目で、照の台詞から考えると、コイツの母ちゃんも卒業生か。
「比較的新しい怪談だってことだな」
そうか、菅ちゃんは20数年ぶりの赴任だという話だから、その間に件の女生徒の事故があったのだろう。
あ、もちろんあの怪談が事実だとして、だけど。
――その怪談をざっと復習すると、こんなカンジだ。
音大受験のために、第3ピアノ室を毎日利用していた女生徒がいた。しかし、本番に弱いタイプだったらしく、受験に落ちてしまう。
彼女は浪人生活を送ることになるが、毎日鬱々として心身共に優れない状態が続いていた。
そんなある日、レッスン帰りの電車の中、ふらついた彼女は開きかけのドアに手を突いてしまう。その手は戸袋に巻き込まれて……
指を何本か切断してしまったのだ。
その後、指を失った彼女がどうしたのかは伝えられていないのだが、以来、第3ピアノ室の真ん中のHキーの音程だけは、どんなに調律しても狂ってしまうのだという―――。
お茶をもらって、社会科教官室から音楽室方面に戻りながら。
「なあ、照の母ちゃん、ウチの卒業生なの?」
照は真剣に湯飲みを見つめながら、
「そうですよー。ついでに吹奏楽部OGですよ」
「へー! そうなの。あ、菅ちゃんの奥さんもそうだよな?」
菅ちゃんの奥さんはパーカッションの大先輩なのである。
「ええ、同期の親友で、いまだによくつるんでますよ」
「へえ、同期なんだあ……あ、それじゃお前、菅ちゃんのこと、入学前から知ってたわけ?」
「もちろんそうですよ。言ってませんでしたっけ?」
照はガラス玉みたいな目で、きょろん、と俺を見上げた。
「聞いてねー」
そうか、それでコイツ初っぱなから菅ちゃんになれなれしかったのか。照は人なつっこいし、菅ちゃんもウェルカムな人だから、馴染むのが早いのは当たり前なんだけど、それにしてもー、と思ってたんだ。
「母ちゃんパート何?」
「ファゴットです。10年くらい前までは、市民吹奏楽団とかで吹いてましたよ」
「へえ−。それでお前も吹奏楽やろうって?」
「うーん、それはどうかなあ」
照は首を傾げて。
「母より菅野先生の影響の方が強いかも。それに俺、運動部入れませんから、部活の選択肢、狭いですもん」
そっか、時々忘れるけど、コイツ体弱いんだよな。これから暑くなるし気をつけてやらないと。
とか話してるうちに、音楽室前に戻ってきてしまった。照はためらいもなく、ピアノ室が並ぶ細い横道へと入っていく。
その、一番奥が第3ピアノ室。
さすがに神経極太な照でも、ドアノブに手をかける時は一瞬躊躇したようだったが、わずかに表情を堅くしただけできっぱりと開けた。
2畳ほどの空間に、古びたアップライトピアノがあるだけの空間。やけに狭くて暗いし、薄ら寒い―――ように感じるのは、俺の気のせいだろうか。
照はピアノの上に懐紙(これも持参したらしい。ポケットに入ってた)を敷くと、その上に湯飲みを置いた。そして更にポケットからなにやら綺麗なお菓子を取り出して―――若草色の小さなマカロン。
「女子だから、かわいいお菓子もあったらいいかなって」
家の貰い物をくすねてきただけですけどね、と、照はぺろっと舌を出して、それから急に顔を伏せて目を閉じると手を合わせた。俺も慌てて倣う。
横目で見ると、照は長い睫毛を伏せて、神妙な表情をしていた。
結構長い時間拝んでから、俺たちはピアノ室を出て……俺は、ふと疑問に思った。
「照、お供えなんて、よく思いついたな」
フツー男子高校生の発想には無いだろう。少なくとも俺は全然思い至らなかった。
「思いついたわけじゃないんです」
くるん、と視神経が透けてみえそうな、澄んだ瞳が俺を見上げて。
「弓道部の話を聞いたもんですから」
弓道部でお供え。というと……
「ああそっか、弓道場には、神棚はつきもんだもんな」
武道場にもあるもんな。
「神棚もですけど、それとは別にお供えと、年に1回は神主さんに来てもらってお祓いもしてるんだそうですよ」
「ええ! 何ソレ!?」
何ソレ、もそうだけど、
「ってかお前、1年生のくせに他の部のことまで良く知ってんなー。友達でもいるんか?」
「ねーちゃんの友達に弓道部の人がいるんですよ。阿賀谷さんて知りません?」
「あがやって……阿賀谷千鶴?」
「そうそう、その阿賀谷さん。今年ねーちゃんと同じクラスになって、何かとつるんでるみたいで」
そういえば彼女は弓道部か。
阿賀谷千鶴は、ウチの学年では有名人だ。何故なら定期試験の成績上位者表で全教科10位以内に載らない時はないという才女だから。
そういやコイツのねーちゃんもそんな感じだよなあ。勉強できるもん同士で友達になったということか。
「先週の日曜、3年生は模試あったでしょう」
「は? 模試?」
模試なんか無かった。部活も無い日だったので、俺はフツーに勉強したり遊んだりしてた。
「あれ、先輩は無かったです? ねーちゃん、新潟市まで受けに行ってたらしいんですけど」
「新潟まで?」
大きな模試ならば、学校かそれでなければN岡市内の予備校で受けられるから、わざわざ新潟まで出かけたとなると、かなり限定的な模試だろうから……。
「……あ、そういえば医学系の模試があるとかって聞いたかも」
「ああ、そういうことかあ」
照は腑に落ちたのか手を叩いて、
「医学系の模試だったんだ。へえ大学受験だとそういう学部別のもあるんですね」
そうか、そういえば阿賀谷は医院の跡取り娘らしい。が……
「お前のねーちゃんも、医学部目指してんの?」
てっきりスポーツ推薦で体育系に行くもんだと。
「そうみたいですよ。今年になってから突然言い出して、家族みんなでびっくりしてるんですけど」
アハハ、と照は笑って。
「似合わないですよねえ。愛想悪いから、患者さん怖がらせそう」
いやしかしそれを補って余りある美貌が……って、話が逸れまくってるな。
「えっと、んで、弓道部の件は、阿賀谷から聞いたわけ?」
「ええ、その模擬試験の後、阿賀谷さんがウチ寄って、ねーちゃんと答え合わせしてたんですよ。帰りの電車だけじゃ終わらなかったらしくて」
うお、さすが才女ズは違う。模試の直後に答え合わせかよ。俺なんか、模試の後なんて頭が疲れてぐったりなんだけど。
「それで遅くなっちゃったから阿賀谷さんウチで晩飯食べたんですけど、その時何でかN高の怪談の話になりましてね。ウチ、両親もじーちゃんもN高出身だから盛り上がっちゃって。俺はもちろんここの話を披露したんですけど」
と、照はさっき出てきたばかりのピアノ室の方をちらと振り向き、
「阿賀谷さんは弓道場のことを教えてくれたわけです」
N高弓道部は伝統と実力を兼ね備えた強豪だ。毎年のように全国レベルの大会に選手を送り込んでいる。
その活動拠点、弓道場は学校の構内ではなく、お山の城跡公園のふもとにある。
何故そんなところにあるかというと、N高は元々N岡藩の藩校であって、弓道場のある場所にその鍛錬場があったからなのだ。
「岩があるんだそうです」
弓道場の概要の後に、唐突に照が言った。
「岩?」
「ええ、道場の庭に立派な岩があるそうで」
「弓道部員は、その岩を拝んだりお祓いしてるってこと?」
「そうです」
岩か。確かにご神体が石だったり岩だったりする神社もあるもんな。いかにもって感じ。
「その岩が怪談の原因になってるわけかー」
「んー、怪談……かな?」
首を傾げた照は、長い睫毛をバサバサさせて。
「どっちかっていうと、言い伝えとか伝説に近い感じ? ピアノ室と違って由緒正しい伝承ですしね」
「どう違うんだよ」
似たようなモンじゃね?
「弓道場では、特に恐ろしい出来事は起こってないんですよ。ただそれは、続けてきたお供えやお祓いのせいで起きていないだけだと、弓道部員は信じてるような……信じていないような。でも儀式は止められない」
「ふうむ」
そういう微妙な心持ちはわかるような気がする。俺だって特に信心があるわけじゃないが、正月の初詣や、盆の墓参りは欠かさないし、時々は家の仏壇に手を合わせたり、お茶くらいあげてみたりもする。霊とか信じてるわけじゃねーけど、そーゆーのを止めるとなんか悪いことが起きそうな気がするんだよな。
弓道部みたいに実績のある集団は、尚更欠かしてはならないと思うだろう。やってることが武道だから、余計に。その岩への信心みたいなモンを止めてしまったら、途端に戦績が落ちたり、事故が起こったりするんじゃないか……なんて、つい不安になるんだろう。
しかし、特に悪いことも起きてないにもかかわらず、その風習が今まで続いてきているってことはだ。
「その岩が、そこまで大事に……っつーか、恐れられるには、それなりの由緒正しい理由があるんだろ?」
「もちろんです。強烈な理由があります」
照は頷いた。
「幕末の、北越戦争まで遡るんですが」
「ああ!」
北越戦争。
その言葉が出てきただけで、何となく見当がついてしまうのは、俺が紛れもなくN岡市民である証拠だ。
幕末。
日本が二分して戦っていた時期、N岡藩は旧幕側であった。とはいえ、積極的に新政府軍をやっつけろー! という方向性ではなく、N岡藩として独立特行を貫きたいという意見が主流だったのだ。実際、独自に外国と取引して軍備を整えたりもしていた。
その外国製軍備のおかげで、N岡藩は、強気の政策で新政府軍にも旧幕軍にも対峙する。独立派の中心である家老は、いよいよ北上して迫ってきた新政府軍に、幕府軍との調停を申し出た――あくまでN岡藩の独立を守るために――しかし渾身の調停案は、一蹴されてしまった。
N岡藩はその談判失敗により、もはやこれまで、と見切りをつけ、それまで断り続けていた会津を中心とした旧幕派、奥羽列藩同盟へ加わることとなる。
戦端を切ってからのN岡軍は、そりゃもーすげー頑張った。一度は落城した城を奪還したり、占領された峠から新政府軍を押し返したり。相当新政府軍を手こずらせたようだ。
けれど、圧倒的な物量と、最新兵器を揃えた新政府軍相手に勝てるはずもなく……。
「戦の最中、一度城が落ちるじゃないですか」
「うんうん」
確か、主力部隊が峠の攻防に出払ってて、そこを奇襲されたんだよな。新政府軍、物量で勝ってるくせに、わりとセコい戦法をしやがる。
「その時、城の守備に残ってた武士の中に、藩校の弓の老師範がいたのだそうです」
「へえー」
それはありそうだ。老いて遠征は無理でも、手練れの老武士を城の守備に残すってのは……とはいえ、守り切れなかったわけだよなあ。
「で、城が落ちて、瀕死で弓道場までたどり着いた老師範は、殿に詫びながら、例の岩の前で腹を掻っ捌いた。その血のりはべったりと岩にこびりつき、洗っても洗っても何年もの間落ちなかったという……と、弓道部では言い伝えられてるんですって」
「なるほどなあ……」
そりゃあ、その岩に、老武士の怨念が残ってるかも。って思っちゃうわなぁ。
「弓道部らしい、立派な言い伝えでしょう?」
「うん、立派立派」
ピアノ室の都市伝説くさい現代怪談とはひと味もふた味も違う重厚感。老武士の凄絶な死に様からすると、怨念のレベルも遙かに上だろうし。
「確かにそんなんじゃ、お祓いとかお供え止めらんないよなぁ。いかにも祟りそう」
「ですよねー。でも祟りを避けるってだけじゃなく、道場の守り神的な意味でも祀ってるんじゃないかなと思うんですー」
「え、守り神? 神様と怨霊は正反対の存在だろ?」
単純に言っちゃえば、神様は人々を守ってくれる存在で、怨霊は祟る物、なんじゃね?
「いやいや、日本の神様は怨霊の裏返しみたいなもんですって」
照はもったいぶって首を振り。
「菅原道真なんて、その典型的な例じゃないですか」
「あっ!」
そっか! 菅原道真!!
才覚に溢れた忠臣だったにもかかわらず、藤原氏に陥れられて左遷され、太宰府で憤死。死後、怨霊となって京に数々の災いを成したと言われる、日本三大怨霊の一。
しかし一方、学問の神様という一面も持ち、全国で篤く信仰されているわけで……。
「手厚く祀っているからこそ、道真サンは神様でいてくれるわけでしょ?」
そうだよな……ってことは。
「もし、全国で一斉にお祀りを止めたら、道真公は、また怨霊に戻って暴れ出す?」
「まあ実際暴れ出すかどうかはアレですけど、そういう考え方なんだと思いますよ。道真サンみたいな大物じゃなくても、水神様とかどこの町でも大事にしてるじゃないですか。ああいうのは、お祀りを怠って、水神様が怨霊となって暴れ出したら大変なことになるから、という理屈でしょ? 身近な例では、ウチもある神社の氏子なんですが」
と、照は地元の古刹の名を上げた。
「あそこは稲作と酒造の神様なんですよね。だから、今年も大過なく米を実らせて、酒を造らせてくださいって祈りをこめて火ィ焚いて、お神楽奉納して、毎年一生懸命神様のご機嫌とってます。あの面倒くさい祭を止めると、凶作になったりヒオチが湧いたりするのかもしれません」
その考え方は解る。意味を見失っている祭は多いけど、そもそもは農民や漁民が神様に収穫を感謝してお願いする儀式だったってのが多いんだろうから。
それにしても、家が神社の氏子だったりするから、照はこういうことに詳しい……っつーか一家言持ってるのかな。
「えっとつまり、お前が言いたいのは……弓道部では、その岩を大切に祀ることにとって、老武士の魂を怨霊ではなく、道場の守り神としてキープしてるんじゃないかと……そういう意味?」
照は嬉しそうに頷いて。
「そうそう。俺的にはそう思うんですよう。とはいえ、弓道部の人たちは無自覚なまま、淡々と儀式を受け継いできただけかもしれませんけどね」
無自覚かもしれないが、旧制高校時代からそれこそ100年以上も着実に岩を守ってきたってことは、やっぱ潜在的な畏れみたいなものがあんだろうなぁ……。
……って。
アレ?
すると……?
「なあ、照、もしかしてお前、第3ピアノ室のお供え」
お供えをすることによって、あのピアノに憑いている(かもしれない)女生徒の霊を。
「……守り神にできたら、とか企んでる?」
うふふ、と照はいたずらっぽく笑った。男でもついドキッとしちゃうくらい、キュートに。
「気づかれちゃいましたか、ええ、そうです。ちょっとそんなことも考えてます」
照は楽しげに、
「ま、ダメ元ですよ。せっかくのボストンだから、試してみる価値はあるかなーってだけで」
ちなみにボストンってのは、スタインウェイの普及版ブランドなんだそうだ。日本のメーカーが委託生産してて、そこそこ古い方がいい音を出すらしい……と、これも照の受け売りだが。
「彼女だって、ピアノの音程狂わせるなんてちまちま祟ってるより、ピアノ室の守り神様になった方が浮かばれるでしょうし」
彼女だって、とか、まるで同級生のことみたいに明るく言うけど……でも。
「……ピアノ直ったとしても、怖くね?」
「怖いですか?」
照はきょろん、といつものように邪気の無さげな視線で俺を見上げた。
怖いですか、って、怖いだろ。今みたいな、神様と怨霊は紙一重みたいな話しちゃったら、余計に。
「祟りが解けたら、なんも怖くないですよ……あ、予鈴」
照が俺から天井のスピーカーに視線を移した。
全く練習しないうちに、昼休みが終わってしまった……と、照はハッとして、
「あ、次教室移動なんだった、ヤバい。じゃ、先輩そういうことで、しばらくお供え頑張ってみますので、時々つきあってくださいね!」
「え……つきあえって……」
小走りに去って行く照の背中に手を伸ばしてみたけれど。
……出来ればつきあいたくないんだけどー!
その後、本当に照はマメマメしく第3ピアノ室へのお供えを続けた。学校に来てる日は必ずお茶を取り替え、数日おきには菓子も上げて。
そんでもって、やっぱり俺も時々つきあわされた。
つきあいながら、照の神経ってマジ太い、と改めて思った。なにせ、お供え菓子を取り替えた後、古いのをヤツは平気で食っちまうんだから。
「先輩もどうぞー」
と、半分差し出されたが、丁重に辞退した。
1ヶ月くらい経った頃、弟の物好きな行為を見物に、照のねーちゃんと、阿賀谷千鶴がピアノ室にやってきた。
ねーちゃんの方は、
「へえ、本当にやってんだぁ」
と、失笑していたが、阿賀谷は真面目な顔で、真剣な声で。
「こういうことは、一度始めたらきっちり続けた方がいいよ」
……理系の才女にマジでそういうこと言われると、余計怖いっつーの!
―――そして、夏休みも間近になった頃。
「先輩、先輩!」
例によって昼休み、音楽室の机に雑誌積んでスティックで叩いて基礎練していた俺に、照がキラッキラした笑顔で駆け寄ってきた。
「ちょっと来て下さい!」
腕をぐいぐい引っ張られる。
どこへ? とはもう諦めてるから聞かない。どうせ例のピアノ室だ。
ピアノ室に入ると、いつものようにお茶とお菓子が供えてあって……そしていつもと違うのは、蓋が開いて鍵盤が見えていた。ちょっと黄ばんだ、古い鍵盤が。
「なんなんだよ?
「まずは聞いてくださいよ」
照は椅子にどさっと座ると鍵盤に手を置いて、ハノンの1番を弾き始めた。
最低音から始まったハノンは、鍵盤をかけあがり、真ん中へと差し掛かる。もうすぐ件の狂ったHキーだ。
ぞくぞくするものを感じながら、その音を待ち受けて、耳を澄ます。
……あれ?
狂いが聞き取れなかった。
高速ハノンはするりと耳を通過していく。
照は最高音まで弾ききってから、くるりと体を回して俺をドヤ顔で見上げ、
「直ったんですよ!」
後ろ手でポーンとHキーを叩いた。
確かに、狂っているようには聞こえない。音も澄んで明るくなったような?
「嬉しいなあ」
照はまた体を回してピアノの方を向き、手を鍵盤に下ろし。
「お供えって、効くもんですねえ」
流れ始めたのは俺でも分かる、ショパンの『子犬のワルツ』
指が鍵盤の上を跳ね回る。曲中でもHキーに違和感はない。
照の演奏は軽やかで華やかで、かつ力強くて滑らかで、さすが、と聞き入ってしまう。
でも、可愛らしいワルツを聞きながら、俺は考えていた。
ピアノが直ったのは、確かに喜ばしいことなのだろう。
でも、お供えで直ったってことは、だ。
調律でもなく、修理でもなく、お茶と菓子を供え続け、拝み続けて直ったってことは……だ。
ぶるり、と背中に悪寒が走る。
何だか……何となくだけど……直る前より、怖い。
それから……。
ワルツが終わるのを待ってから、尋ねた。
「なあ、照……」
「はい?」
満足げな笑顔が俺を振り向く。
「俺らが初めてこのピアノ開けた後、一時他のパートのヤツらが見に来たりしてたじゃん?」
「ええ」
「結構何人も見に来てたんだよ」
「でしたね」
みんな野次馬ですよねえ、と照は笑う。
「なのにさ……」
気になっていたこと。
どうしても、ひっかかっていたこと。
「どうして俺ら以外は、誰にも、あの指、見えなかったんだろうな?」
す、と照の笑みが薄らいだ。完全に消えてはいないが、口が引き結ばれて。
「それについては、理由がわかるような気がします」
「わかる……か」
やっぱりコイツはそこまで考えていたか。
「多分、俺がいたからです」
「……え?」
「俺がピアノ弾きだから、じゃないですか?」
「ああ……」
感じたのか。照がとびきり優秀なピアノ弾きであることを、このピアノは……ピアノ室の主は。
「それから、俺が」
「まだあるんか?」
細い首がわずかに傾げられて。
「彼女に近いところにいるからじゃないでしょうか」
「近いところ?」
「俺、小さな頃、喘息の発作で何度も死にかけてるんですよ。それこそお花畑見たこともありますし」
長い指が、いとおしげに黄ばんだ鍵盤を撫でる。
「俺がほんの少しだけ、あちらに近いところにいるからじゃないですかね……」
(終) |