第3ピアノ室 DORI
 

「―――そのピアノには、因縁話みたいなのがあってさ」


前世紀の話だ。
第3ピアノ室を毎日のように使って熱心に練習している女生徒がいた。彼女は音大を目指していた。
だが、彼女は受験に落ちてしまう。緊張のあまり本番で実力を出せなかったらしい。
自らのメンタルの弱さにすっかり悲観してしまった彼女は、来年もあるよ、という周囲の励ましにも関わらず、どんどん落ち込んでいくばかり……
そんな彼女を更なる悲劇が襲う。
浪人生活に入った彼女は、レッスン帰り、夜更けの電車に乗っていた。疲労と不眠と食欲不振で、体調を崩していた彼女は、駅での停車時にふらついて倒れこんでしまう。
よりによって開きかけていたドアに向かって。
そのドアに彼女の手が巻き込まれて―――

 指を何本か切断してしまうほどの大ケガだったそうだ。

 その後、彼女がどうしたのか、どうなったのかは、伝えられていない。

「第3っつーのは、ホラ、すぐそこ、音楽室の隣に3つピアノ練習室が並んでるだろ? その一番奥ね」

 N高にはピアノ練習室が3つある。いずれも3畳ほどの小部屋で、音楽室の隣にせせっこましく並んでおり、中には古いアップライトピアノが1台ずつ。合唱部員や、音大受験生がよく使っている。防音はロクに効いてないが、一応個室だから集中できるそうで、空いてる時は吹奏楽部の管楽器パートのヤツも、楽器を持ち込んで個人練に使ったりする。
その練習室の一番奥、どん詰まりにある第3練習室のピアノが、問題のブツだ。

「どう怪しいかっつーとね、練習室のピアノもさ、音楽室や講堂のピアノのついでに、一応年に1回調律されてんだ。でも第3練習室のピアノの、ある1音、真ん中のH(ハー)のキーだけは、どんなに調律しても音程が狂ったままなんだってよ。調律師が合わせてった直後は一応聞き苦しくない程度に直るんだけど、弾いても弾かなくても、またすぐに狂っちゃうんだって。一説によると、3日と保たないとか……」

 俺はそこでニヤリと笑ってみせ。

「その女生徒の祟りだったりするかもね?」

 狙い通り、1年生の女子はぶるっと身震いすると、ちらと背後を……ピアノ室の方を振り返った。
しかし……
「それ、見に行きましょう!」
想定外なことに、もうひとりの1年の男子は、瞳をキラッキラさせて立ち上がった。

 我がN高吹奏楽部パーカッションパートにも、この4月、めでたく2名の新入部員が加わった。しかもふたりとも経験者で即戦力になれる実力を持っている。ありがたやありがたや。
マジで小躍りしちゃったほど嬉しいので、早速放課後のパート練習を1時間ほど潰して、新歓怪談を開催した。やっぱし学校七不思議は、最初に教えておかないとネー(有に7つ以上あるのに七不思議とはこれいかに)。
やたら歴史のある学校なだけに(なにせルーツが江戸時代の藩校だ)怖い話、不思議な話には事欠かない。その中でも吹奏楽部員として最も身近なのが、今俺が披露した、ピアノ練習室にまつわる怪談であろう。なにせ合奏はもちろん、パーカッションパートが日々パート練に明け暮れている音楽室の、すぐ隣なわけだから。
身近だからこそ知っておくべきだろうし、怖いわけだし(これ大事)

―――と、思って真っ先に話したわけなんだが。

「そのピアノ、見たい今見たい絶対見たい!」
なんだこのすさまじい食い付き。コイツ、男とは思えないくらい綺麗な顔してやがるくせに、神経はえれー太えなー。
しかしこのずうずうしい1年生……照というのだが、コイツがピアノの話に食いついたのは、無理からぬことではある。ヤツは中学時代、全国レベルのコンクールで入賞したほどの、本格ピアノ弾きなのだ。
ちなみに、コヤツはパーカッションも上手い。リズム感とセンスがいいのはもちろん、鍵盤楽器で共通しているせいか、マリンバやシロホン、ビブラホンなどが特に上手い。今後泣きたくなるような鍵盤の楽譜がきたら、全部コヤツに回してやるぜと密かに決めた俺は、一応パートリーダーである。

 ちなみに照には、ウチの学校の3年に姉さんがいて、弟とは違ってバリバリの体育会系だが、彼女もえらい美形だ。でも俺のストライクゾーンからは些か外れていて……だって、才色兼備すぎて近寄りがたいんだもーん。
でも照と親しくなったら、彼女ともちっとはお近づきになれることもあるかもしれないなー、とちょっと期待したりして。
あ、いや、姉さんには彼氏いるし、お友達以上のことは何も求めていないからねっ!?

 だからというわけじゃないが、照に押し切られてパート員7人全員でぞろぞろと第3ピアノ室に向かうと、果たしてそこは無人だった。他のふたつが埋まっていても、この部屋だけは大概無人だ。そりゃそうだ、不気味な噂のある、しかも音程が狂ったピアノで練習したいヤツなんか普通いないよなぁ。
「ここなんだけどね」
第3ピアノ室のドアを開けると、照が我先にと顔を差し入れた。もうひとりの1年生は尻込みして先輩たちの陰に隠れているというのに。
「わあー、ボストンだ、なんでえ?」
照は怪談なぞ忘れたように、何の躊躇もなく小部屋に踏み込み、マホガニー色のアップライトににじりよる。いきなりピアノのメーカーに食いついたらしい……って、そこかよ!
「マニアックだなー、普通カワイっしょ! ボストンとか高校にアリエナーイ。卒業生の寄付かなあ。結構古そうだし、初期の頃のかなあ」
んなことは3年生だって知らない。大体、ボストンてなんなんだ。俺が知っているのは、このピアノは怪談的シロモノであるということだけで。
照は、ボストンちゃん〜はじめまして〜♪ と即興の鼻歌まで口ずさみながら、ご機嫌でピアノの蓋を開けた。現れたのは、少し黄ばんだ、それでもごく普通のピアノの鍵盤。
「真ん中のHでしたっけ?」
「うん」
照は椅子を引き出し、軽く調整してから座った。常に、目元に微笑、口元に薔薇(さすがに実際にくわえてるわけないが、そういう雰囲気)みたいな表情のヤツなのだが、ピアノに向かうとさすがに顔がピリリと引き締まる。
白い両手が鍵盤の上に乗せられる。なるほど、やたら指が長い。
おっ、何か弾いてくれるつもりなのかな。さっそくコイツのピアノを聴くことができるのか!? と怪談を忘れてワクワクしたのだが、すうっと両の手が最低音の方に滑り、弾き始めたのは、ハノンの第1番。
がっくり。これなら俺だって弾けるっつーの。
それでも本当に上手いヤツのハノンってのは凄まじいもんで、火を噴きそうなものすごいスピードで駆け上がっていく。あっという間に真ん中付近にたどり着くと……照は唐突に手を止めて、嫌そうな声を上げた。
「ホントだあ、気持ちワリー」
速すぎて俺には聞き取れなかったのだが、例の真ん中のHのキーを叩いたらしい。
照は右手の人差し指で、件のキーをもう一度叩いた。
改めて鳴らしてみれば、生粋の太鼓叩きのため管のヤツらより音感が些か大ざっぱな俺にでもわかるくらい、明らかに低い。しかもひどくくぐもっている。
「弦が伸びてんのかなあ? それか、異物がひっかかってるのかも」
照は立ち上がると、アップライトピアノの屋根板に下から両手を当てた。
「えっ、開けんのか?」
「ええ、見てみます。原因が分かったら儲けものでしょ、せっかくのボストン。直ったら俺、使わしてもらいますよ」
うわあ、こいつマジで神経ふとーい。
パート員が見守る中、よっ、と小さなかけ声と共に、照はピアノの屋根板を開けた。そして突然、そーだ、いいものあるんだ、と呟き、
「すいません、ちょっと待っててください」
と、いきなりピアノ室を出て行った。
なんだなんだ? 俺たちだけ取り残されても……
照はすぐに戻ってきた。手には、キーホルダーになった小さなソーラーLEDライトを乗せている。
「震災以来、じーちゃんに持たされてるんですう」
照は言い訳がましくそう言うとライトを点け、上履きを脱ぎ、ピアノ椅子に上り。
「どれどれ……」
ピアノの中を覗き込んだ。そしてすぐに、
「あれ? 何だアレ……」
と不思議そうに呟いた。
何か見つけたのだろうか。怪奇現象じゃなくて、物理的な故障であって欲しいような、そうでもないような、複雑な気分。
……と、ぴくっと椅子上の照の膝が震えた。
そして。
「……ひっ」
小さな悲鳴を上げ、椅子を倒しそうになりながら跳び降りた。
えっ、どうした?
「な、何かあったのか?」
俺を見上げる顔は、白皙通り越して、青い。
照はしばし逡巡するように唇を震わせてから。
「いえ……あの……俺の見間違いかもしれませんので……先輩も見ていただけますか?」
そう言って、俺にライトを差し出した。

 え。

 俺?
俺が見るの?
思わず他のパート員を見回すと、皆が期待と恐怖の入り交じった表情で、ひたと俺を見つめている。
……うう、そうか、俺ってばパートリーダーか。
「……わかった」
照からライトを受け取る。大曲のクライマックス部分のシンバルのフォルテシモ、つまり渾身の一発を叩く寸前のように、グッと丹田に力を込めてから椅子に上がる。
おそるおそるライトをピアノの中に向け、暗い箱の隙間を覗き込む。88本の弦とハンマーなどなど複雑な機構が見えてくる。例のHキーの弦があるはずの真ん中あたりを、勇気を振り絞って、上から下へと照らし出す。

……あれ? 
弦になんか、白いものがひっかかって……

「………!」

 それは、指に見えた。
細く、白い指。
おそらく女性の、人差し指か、中指が。

 弦の一本に絡まって。

――――血まみれの指が。


悲鳴だけは何とか飲み込み、椅子を蹴倒しながら飛び降りた。
照が蒼白な顔をしながらも、よろける俺を支えてくれて、
(見ましたか?)
やたら大きな、ガラス玉みたいな栗色の瞳がそう問いかける。
俺は小さく頷き、
「……あれって、ゆ……」
指、と言おうとした瞬間に照の掌がぴしゃっと俺の口を塞いだ。ヤツは、入口付近に怯えて固まっているパート員たちを、ちらりと見やった。
……ああそうか、女子もいるのにここで生々しいこと口走っちゃったら、パニックになりかねない。
「まずは、ここを出ましょう。話はそれからに」
照はキッパリと言い、パート員たちはその言葉を待っていたかのように、そそくさとピアノ室を離れていく。
俺も続いて出ようとしたが、照に、
「先輩、ピアノ、蓋しないと」
と、呼び止められた。ちくしょう、触りたくもないが、確かに蓋しないで出て行くのはもっと怖い。照と2人で屋根板を慎重に閉めた。
嵌めるときに、開ける時には聞こえなかった、キキィっというちょうつがいのきしみ音がし、その音が遠い悲鳴に聞こえて、手が震えた。

 手に汗をびっしょりかきながらピアノを片付け、照と俺はピアノ室を出た。ドアを閉める前に照が中に向かって手を合わせていたので、俺も慌てて倣う。
ああ……やれやれ。
ドアをそおっと閉めて、やっと人心地ついた。照もふうー、と長い溜息を吐いているから、さすがにビビっていたのだろう。
しかし、あの指は何だったんだろう。まさか本物ってことはあり得ないとして……怪談に影響されて見た幻覚だとして。でも、照の反応から考えて、おそらく同じものを見たのだろうからなあ。幻覚を2人以上で見るのって、有りか?

 幻覚でなければ……何なんだよ。
幽霊とかいうことになっちゃうのか?
例の女生徒の指だっていうのか?

 音楽室に戻りながら考え込んでいると、突然照が。
「……だからHキーなのか?」
音楽室のドアに手をかけながら、ハッとしたように顔を上げ、呟いた。
「Hキーなのがどうしたんだよ?」
それにも意味があるっつーのか?
「Hって、英語表記だとBじゃないですか」
「うん、Bだな」
N高吹奏楽部でもご多分に漏れず譜読みは基本ドイツ読みだが、ポップスやジャズのコードなんかは英語表記だったりするので、ドイツ音名のHを英語音名のBに咄嗟に変換することくらいはできる。
「んでもって、イタリア読みではSi(シ)でしょう」
「だな」
なぜか日本の学校音楽教育はイタリア表記なんだよな。イロハじゃなくて。 
「Bって……」
戻りかけていた照の顔色が、また青ざめている。
「BloodのB、なんじゃないですかね。しかもSiは“死”に通じるし……?」

 

(終)

 
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